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済州に刻まれた傷 「済州に刻まれた日本帝国時代の傷跡」
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済州島のオルムのその後ろには歴史の傷跡も刻まれていて、美しい景色を見に来た人たちにたまには過ぎ去った歴史の辛さを思い知らせてくれる。 今回は済州島に刻まれた日本植民地時代の跡を探しに旅に出てみよう。
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- オルムに残された戦争の記憶、日本植民地時代の済州軍事施設済州に刻まれた傷 「済州に刻まれた日本帝国時代の傷跡」
済州島のオルムのその後ろには歴史の傷跡も刻まれていて、美しい景色を見に来た人たちに たまには過ぎ去った歴史の辛さを思い知らせてくれる。 そのような悲惨な歴史を乗り越えてきたオルムの穏やかな風景を見ていると、なんとなく悲しい気持ちになる。日本帝国に国を奪われた悲しい時代、済州は日本帝国が敗戦する直前まで、怯えていた。特に日本本土を守るため最後の戦地にしたため、ひょっとすると島全体が戦争の火炎にさらされる状況に陥った時もあった。自分が立っている場所の辛い思いを理解すること、それが旅行の本質であろう。それでは、今回は済州島に刻まれた日本植民地時代の跡を探しに旅に出てみよう。済州島に深く刻まれた傷跡を撫でながら、悲しい歴史の済州を弔おう。 今の世代はそれを忘れていないと伝えれば伝えるほど、きっとその傷はきれいに治るから。

松岳山(ソンアクサン)の周辺、農民たちが汗をかきながら畑を耕している所々から奇怪な施設が見える。やわらかい土の中、生命力を持つ作物の後ろに建てられた、コンクリートの施設。怪異という言葉でしか表現できない。なぜ空と接している大地がこのような痛ましい姿に変わってしまったのか。アルトゥルという地名は「下にある広い大地」を意味する言葉である。日本に支配されていたため、このような親しみのある名前の場所が済州の悲しい歴史を伝える場所として存在している。
松岳山(ソンアクサン)の周辺、農民たちが汗をかきながら畑を耕している所々から奇怪な施設が見える。やわらかい土の中、生命力を持つ作物の後ろに建てられた、コンクリートの施設。怪異という言葉でしか表現できない。なぜ空と接している大地がこのような痛ましい姿に変わってしまったのか。アルトゥルという地名は「下にある広い大地」を意味する言葉である。日本に支配されていたため、このような親しみのある名前の場所が済州の悲しい歴史を伝える場所として存在している。

今まで見たことのない絶景。海上の兄弟島(ヒョンジェソム)、聳え立った山房山(サンバンサン)、後ろには威厳が満ち溢れる様子で済州島を見下ろしている漢拏山(ハンラサン)も眺めることができる。このようにセッアルオルムから眺める景色は、まさに絵に描いているような景色である。青が彩る済州島の景色の中で心温まるやすらかさを満喫することができる。しかしながら、そのオルムが済州の悲しさを秘めている場所というのを知れば、絵のような景色も悲しいものになる。悲しい歴史に変えてしまった済州のあの日の記憶を「陣地洞窟」で体験することができる。セッアルオルム陣地洞窟は 4m x5mの大きさであり、全体の長さは1,220mに及ぶ大型の洞窟である。迷路型洞窟で、現在まで調査された陣地洞窟の中でも最大の規模として知られている。
この施設も、1943年に日本帝国が建てた軍事施設であり、当時に完成されないまま放置されたと見られている。戦闘司令室、兵士、弾薬庫、燃料と、飛行機修理工場、通信室等の重要な軍事施設を隠すために構築され、付近のアルトゥル飛行場とも連携性がある。現在、一部は陥没した状態である。入口は6か所あり、トラックが通れるくらい広い。しかし、この入口は場所を隠すために谷を掘り作ったため探し難くなっている。それほどこの構造物は当時の日本帝国がいかに徹底した戦争の防御準備をしたのか、分かるようになる。現在、登録文化財第310号として指定されている場所である。
住所 : 西歸浦市 大靜邑 上摹里 316番地

松岳山の険しく切り立った海岸絶壁。まるでドパーンと岸壁にぶつかる波から済州島を守っている堅固な城壁のように見える。ところで、その険しい絶壁を人為的に掘って作った穴は遠い所からも見える。それは日本植民地時代に造られた洞窟陣地である。秘色の海の水面に差す強烈な日差し、しかし海岸の洞窟陣地がある絶壁の裏側にはその日差しまで遮られ、寂しい雰囲気までする。この洞窟は1945年に建設された。日本帝国の敗戦が確実になっていた頃の話である。当時の日本は戦争で劣勢に立たされていたため、本土を守るために日本の6か所と済州島を含み7か所の地域で決号作戦を行った。済州島で行われた作戦は「決7号作戦」で、それにより海岸の洞窟陣地も作られた。


日本は海上に近づく連合軍の軍艦を攻撃するために松岳山の絶壁を掘った。その洞窟の中に小型の船を隠し、爆弾を積んだ船で自殺攻撃をする計画であった。「ㅡ字形」、「H字型」、「コの字型」の洞窟陣地の15か所が残されており、最も短い洞窟の長さはおよそ6.15mで絶壁の中間地点に位置している。最も長いの洞窟は57.3mで、入口も二つになっている。陣地構築の掘削作業には、近所の済州島の住民が動員された。当時の住民たちは、理由も分からない戦争のために命をかけて絶壁を掘らなければならなかった。当時の日本帝国の戦争への防衛準備の実態を見ることができる軍事施設として評価され、現在の登録文化財第313号として指定されている。
住所 : 西歸浦市 大靜邑 上摹里 195-2番地

自然の力強い動きが感じられる峰。なぜこのような美しい自然が悲しい歴史の舞台になってしまったのか。聳え立った峰の形が琴に似ていて「弾琴峰」とも呼ばれていた慕瑟棒。ここにも、「慕瑟峰日本帝国軍事施設」が位置しており、日本帝国による傷が深く刻まれている。この施設も、1945年に構築されたコンクリート構造の軍事施設である。飛行場に必要な電力供給や弾薬保管のため建てられ、アルトゥル飛行場と多少離れている場所に位置している。おそらく米軍の空襲の際、被害を最小限にするための手段であったと思われる。その施設はY字型に造られており、上には空気穴15か所空いている。規模は約200㎡で、保存状態はかなり良好であり、最近までサツマイモ保管庫として利用されていた。一時済州島に残された戦争の傷跡を平穏な日常で包んだ、済州島の住民の心が理解できる。現在、登録文化財第314号として指定されている。
住所 : 西歸浦市 大靜邑 上慕里 3415




済州島の所々に深い傷として刻まれている日本植民地時代のつらい歴史。その歴史を辿り着く目的で建てられた博物館がカマオルムのふもとに位置している。それが「済州戦争歴史平和博物館」である。2004年に開館したこの博物館は、約1万㎡の敷地に建てられた、延べ面積980㎡の1階建ての建物である。内部には展示室と映像室があり、当時の日本軍が使っていた軍需品、文書、写真資料、生存者の証言資料、 地下要塞作業に使われた道具のコレクション等が展示されている。博物館に訪れた人々が日本帝国の残酷さを一目で把握できるように時代の痛みを複数の資料の中に集約し展示している。 また、当時の徴用された住民の苦労や悲しみを感じられる洞窟陳地が同じ空間にあり、その悲惨さを改めて感じることができる。特にこの陣地は、現在発見した洞窟陣地113か所のうち、最初に一般人に公開、活用される洞窟である。高さは最大2m、幅は最大3m、長さは計1.2kmに及ぶ1〜3の洞窟の中で復元作業が終わった第1洞窟の300m区間を公開している。ちなみにこの博物館は、日帝時代の洞窟陣地の建設のため強制動員されたイ・ソンチャン氏の息子イ・ヨウングン氏が立てた博物館である。 父親の時代の済州島の人々の悲痛な思いが忘れられないよう、博物館の所々に戦争の傷跡をリアルに表現できたのも、そのような背景があったからこそではないかと思われる。


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- 2022-03-08
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